nijiken

ロックバンドRainbowを研究するブログとしてスタートしましたが、幅広い話題を取り上げたいと考え、ブログタイトルを変更しました。

虹に関わった人達 ボーカリスト編

ロニー・ジェイムス・ディオ (1942年7月10日−2010年5月16日)

【加入前のキャリア】元々トランペット奏者だったロニーはリッチーよりも年上でもあり、かなり古くからベース&ボーカルで活動していた。1962年にロニー・ディオ&ザ・プロフェッツでデビューしたのち、エルフを結成。1974年にディープパープルのサポートを務めた際にリッチーと出会う。

【ミュージシャンとしての実力】圧倒的声量と音程を外すことがない音感で、誰もが認めるHRを代表する名ボーカリストである。リッチーのリフにメロディを付けるセンスも卓越しており、ロニーがいたからこそ、リッチーはディープパープルを脱退する気になったと言える。後にレインボーが様式美HRの始祖と言われるようになった原動力でもあった。

【脱退理由】ロニーをバンドの前面に推したい妻のウエンディとリッチー・ブラックモアコージー・パウエルの対立があった模様。リッチーによると結成時には低姿勢だったが徐々に傲慢な態度になっていったという。

ロニー側から言わせれば、アメリカ進出のためのバンドのポップ化を承諾しなかったという明確な理由もあり。脱退後のインタビューにおけるリッチーに対する罵詈雑言は激しいものがあった。

【脱退後】ブラックサバス、DIOにおいて活躍した。晩年、リッチー、コージーとレインボーの再結成話が実現寸前まで進んだが破談に終わった。

【異名】メタル界のサブちゃん、メタル界のゴッドファーザー

 

グラハム・ボネット(1947年12月23日−)

【加入前のキャリア】1968年に従兄弟とのデュオグループ、ザ・マーブルスでデビュー。リッチーらが記憶していたことから加入につながったと言われている「Only One Woman」がヒットした。ベーシストとして活動したこともある。その後はソロ歌手としてアルバムを3枚発表していた。オーディションで「Mistreated」を3音歌っただけで合格した。

【ミュージシャンとしての実力】4オクターブとも言われる声域を誇り、人間離れした声量でロニー時代の曲も難なく歌いこなす実力があった。ポップもHRも軽々とこなすユーティリティ性は、ポップ化を目指す過渡期のレインボーにとっては適任だったと言える。

ただ当時はHRに興味が持てず、リフに歌メロを付ける作業を苦手としていたらしい。歌詞を覚えるのも苦手で、ステージで歌詞カードを準備することが多い。(のちにMSGでこの事が災いをもたらす)

アルカトラス初来日時のパフォーマンスが不安定だったため、一時評価が不当に低い時期があったが、今では再評価されている。レインボー時代は圧倒的な歌唱をほとんどの公演で聴かせている。

【脱退理由】その歌唱についてはメンバーも皆認めていたが、元々HRが好きではなかった上に、ステージ前にリッチーに逆らって髪を切ってしまったこと、スタジオでのやる気のなさにロジャー・グローヴァーが激怒したこと等、色々なことが重なったため、バンドは新ボーカリストを探すこととなった。

そして運良くジョー・リン・ターナーが見つかったため、グラハムはクビとなった。

グラハム側から言わせれば、親友のコージーが居なくなったし、ニューアルバムは「I Surrender」以外良い曲がなかったので自分から辞めた、らしい。

【脱退後】コージー・パウエルの後を追い、マイケル・シェンカー・グループに加入した瞬間にコージーは脱退。その後、名盤「Assault Attack」を発表したが、ステージ上でのトラブルで脱退。アルカトラスを結成し、イングヴェイ・マルムスティーンスティーブ・ヴァイを輩出した。解散後クリス・インペリテリインペリテリにも参加している。

その後多様なバンドで活躍し、日本のバンド、アンセムともツアーを行なっている。

現在はグラハム・ボネット・バンドで活動中。2019年も来日公演を行った。

【異名】やっさん

 

ジョー・リン・ターナー(1951年8月2日−)

【加入前のキャリア】元々はギタリストとしてキャリアを始め、1976年からファンダンゴに参加し、ギターとボーカルを担当していた。ファンダンゴ解散後いろんなバンドのオーディションを受けていたが、当初はジャズギターやイーグルスが好きでレインボーにはあまり興味がなかったらしい。リッチーから直接電話を受け、オーディションに誘われた後、グラハムがバックコーラスを入れた「I Surrender」を 見事に仕上げたことで加入が決定した。

【ミュージシャンとしての実力】当時、熱烈なアバのファンだったリッチーが求めていたボーカリスト像は、ポップな楽曲を歌えて作れる人だったと想像される。ジョー・リン・ターナーは80年代を席巻したポップロックに最適な声とルックスを持っており、更に優れたメロディセンスも兼ね備えていたことから、長くリッチーのお気に入りとして君臨した。

しかし、それまでの歴代ボーカリストの圧倒的なパワーに比べると若干見劣りするのは事実である。特にライブでのパフォーマンスは線が細く、ロニー期の曲はキーを下げたり、ハイトーン部で掠れたりで、熱心な既存のファンの信任を得られなかったことは否めない。

それでもスタジオでの仕事は優れたモノを沢山残しており、名盤「Bent Out Of Shape」はジョーの貢献度が最も高い。

【脱退理由】1984年3月の日本公演後ディープパープルが再結成されたため、正確には脱退ではなく解散ということになる。当時リッチーは「最近ジョーは傲慢になって来てた」的発言をしていた為、レインボーが継続していたとしても長くはなかったかもしれない。

【脱退後】ソロ活動、イングヴェイ・マルムスティーンライジングフォース参加後にディープパープルで再会することとなる。「ジョーは良いボーカリストではあるが限界がある。」とリッチーは語っていたが、スタジオでは良い仕事をするが、これはステージでは物足りないということを意味するのかもしれない。

その後、マザーズアーミー(ジェフ・ワトソン、ボブ・デイズリー、カーマイン・アピス)、ヒューズ・ターナー・プロジェクト(グレン・ヒューズとのユニット)、OVER THE RAINBOW(レインボーのトリビュートバンド)等多数のプロジェクトで活躍。

【異名】ゴールデンボーイ

ドゥギー・ホワイト(1960年3月7日-)

【加入前のキャリア】スコットランドでの活動を経て、1991年にプレイング・マンティスのボーカルとして来日。アイアンメイデンのオーディションでブレイズ・ベイリーに敗北した時期に、キャンディス・ナイトがデモ音源を聴いて気に入ったことから、リッチー・ブラックモアズレインボーのオーディションに合格することとなった。

【ミュージシャンとしての実力】一言で言えば器用なタイプのボーカリスト。強い個性はないが、ロニー期からジョー期までの多様な曲を歌いこなせるユーティリティ性がある。リッチーからは、メロディ作曲能力とライブでのアドリブ力を高く評価されていた。メロディのアイデア出しにおいては量産型であり、一曲に対し複数のメロディを提示してくることが常だったらしい。ライブパフォーマンスにおいては、ご当地の替え歌をアドリブで歌う能力を賞賛されていた。

【脱退理由】リッチー・ブラックモアが語るには、他のメンバーと揃ってのギャラアップの要求をはねつけたことが原因とされている。ただ、この時期はブラックモアズ・ナイトの始動時と重なり、当時マネージャーとなったばかりのキャンディス・ナイトの母キャロルが意図的に潰したのではないか?とも考えられる。

【脱退後】レインボーOBは他のHRバンドで活躍するという法則通り、イングヴェイ・マルムスティーンライジングフォースに加入したり、マイケル・シェンカーズ・テンプル・オブ・ロックで活動したりと活躍中。

 

【その他の人達】

イアン・ギラン

ロニー脱退時にリッチー自ら加入を依頼した。ところが当時はギランの方がアメリカで売れていたため、逆にギランに入らないかとキツイことを言われ実現しなかった。リッチーの立場としてはアメリカで成功するための苦肉の策だったと思われる。プロデューサーにロジャーを起用したことも関係があるのかもしれない。

 

ピート・ゴールビー

グレン・フライが抜けた後のトラピーズに在籍していたこともある。ロニー脱退後に一時加入していたらしい。リッチー曰く、声は気に入っていたがキーが低くAまでしか出せなかった為クビにしたとのことである。

その後ユーライアヒープに加入しアルバムを発表。ルー・グラムを彷彿とさせるポップよりのボーカリストであり後のジョー・リン・ターナーと共通する資質があるように思えるが、少し時期尚早だったか?