nijiken

ロックバンドRainbowを研究するブログとしてスタートしましたが、幅広い話題を取り上げたいと考え、ブログタイトルを変更しました。

虹に関わった人達 キーボーディスト編

ミッキー・リー・ソウル(1946年6月6日ー)

【加入前のキャリア】アメリカ、ニューヨーク州コートランド生まれ。1960年代中盤から自身のバンドを持ちながら、軍に入隊のため音楽活動を中断。1970年にエルフに加入。オリジナルメンバーのギタリスト、ニック・パンタスが交通事故で死去した為、キーボーディストのダグ・サーラーがギターに転向(後に脱退)したことで声がかかったらしい。エルフは1972年にロジャー・グローヴァーとイアン・ペイスに見染められてオープニングアクトとしてディープ・パープルに帯同。ミッキー・リー・ソウルはロジャーグローヴァーの1974年のソロアルバム「The Butterfly Ball and the Grasshopper's Feast」で2曲を共作し、「No Solution」ではリードボーカルをとっている。 

エルフのメンバーがそのままレインボーに移行した為、ミッキー・リー・ソウルはレインボー初代キーボーディストとなった。

【ミュージシャンとしての実力】

彼はあくまでもロックンロール寄りのキーボーディストであり、エルフでのプレイは元より、レインボーの1stアルバムでもホンキートンク調ピアノが冴えている。

【脱退理由】リッチーの理想はクラシカルなキーボーディストであり、音楽性からしてミッキー・リー・ソウルが脱退に至ったのは当然である。

【脱退後のキャリア】脱退後もディープ・パープルとの付き合いが深く1976年にはイアン・ギラン・バンドに加入しフランスツアーを行った。

1996年よりディープ・パープルにおけるジョン・ロードのメンテナンスを、その後はロジャー・グローヴァーのメンテナンスとして携わった。

 

トニー・カレイ(1953年10月16日ー)

アメリカ カリフォルニア州生まれ

【加入前のキャリア】ロサンゼルスにてブレシングスというバンドで活動している時、1974年レインボーのオーディションに誘われ、すぐに加入が決定。ライブのためのリハーサルを行ったが、1回だけコードや構成、エンディングを確認した程度のあっさりしたものだったらしい。1975年末からアルバム「Rising」のレコーディングが開始。基本的にトニー・カレイ抜きでレコーディングが進行し、最後にキーボードをダビングする工程で作成された。プレイに関してリッチー・ブラックモアからは特に指示はなく、トニーはサウンドを厚くすることを第一に考え、リッチーのリフをなぞることに腐心したとのことである。ツアーでのインプロヴァイスはそれぞれの裁量に任されており「レインボーはとても民主的なバンドだった」とトニーは振り返っている。

【ミュージシャンとしての実力】バッキングではリッチーのギターを厚く支え、ソロではクラシカルでメロディアスなプレイでバンドに貢献していた。その実力はレコードよりもステージで存分に発揮されており、特にアルバム「On Srage」の「Still I'm Sad」におけるソロはドラマティックかつ流麗なメロディを奏でている見事な名演である。

ボーカリストとしても評価は高く、ソロアルバムにてビルボードチャート・トップ40ヒットを5曲とレインボーを遥かに超えるヒット曲を輩出している。

【脱退の理由】トニーは1976年9月ニューキャッスル公演で1回目の解雇宣告を受けている。理由は"弾きすぎ"とのこと。ただしワールドツアー中でもあり同レベルのキーボーディストを調達できなかったため復帰となった。

1976年12月の日本公演になると、トニーは露骨にイジメを受けるようになり、ツアー終了後またしてもクビとなる。(ここでジョー・ヴェスコヴィが新任キーボーディストとして一時的に加入したが、すぐに解雇)しかしやはり後任が見つからず2度目の復帰となった。

1977年よりアルバム「Long Live Rock'N'Roll」のレコーディングのため、パリ近郊のデルーヴィル城に入ったが、ここでのトニー・カレイは常軌を逸したイタズラを受け続けたため、夜中に城を逃げ出すこととなりそのまま脱退している。リッチーのみならずコージーもトニーを心底嫌っていたため、両者から集中砲火を喰らった形である。必然的にイタズラも酷いものが多く、正直笑えない。トニーの立場としては逃げて当然であったと言える。

「Rainbow Eyes」をはじめアルバムのキーボードの半分はトニー・カレイのプレイが残っていると言われている。

後にトニーは、リッチーと相性が合わなかった理由を、イギリス人とアメリカ人の考え方の違いとしている。

【脱退後のキャリア】 
1982年にソロアルバム「In the Absence of the Cat」をリリース。 1984年には「A Fine,Fine Day」が、ビルボードチャート22位まで上昇するヒットとなった。楽曲はHRというよりAOLではあるが、見事なボーカルを聴かせている。この当時のミュージックビデオは日本のMTVでも頻繁に流れていた。


A Fine, Fine Day

同時にプラネットPプロジェクトにボーカリストとして参加し、現在も継続中。2009年より、ジョー・リン・ターナー、ボブ・ロンディネリ、グレッグ・スミス、ユルゲン・ブラックモアとレインボーのトリビュート・バンド「Over The Rainbow」の結成に参加。

 

デヴィッド・ストーン(1952年ー)

カナダ トロント生まれ

【加入前のキャリア】世界で最初にギターシンセを駆使したロックバンドsymphonic slamに在籍していたことで有名。1976年に発表した唯一のアルバム「Symphonic Slam」は再評価され日本でも一度再発されているが、現在は廃盤となっている。

ところが、amazon music UNLIMITEDでは普通に聴けるので驚く。

【ミュージシャンとしての実力】レインボーに加入したのはアルバム「Long Live Rock’N’Roll」 のレコーディング途中であったが、すでにトニー・カレイがある程度の録音を完了していたため、どこからどこまでがデヴィッド・ストーンによるものかがはっきりしていない。ことの経緯からリッチー・ブラックモアは、トニー・カレイの後任にもクラシックの素養を持つロックキーボーディストを探していたはずで、デヴィッド・ストーンはその意味で及第点だったのだろう。1978年のツアーのライブパフォーマンスを収録したマテリアルは映像を含め沢山残っているため、彼のキーボードを確認することは容易である。

実際デヴィッド・ストーンのプレイは適度にクラシカルで音色もクセがなく、歴代キーボーディストの中でも高く評価する人は少なくない。

デヴィッド・ストーンの残した最大の功績は「Gates Of Babylon」の間奏部におけるコード進行のアイデアで、大部分を彼が書いたことを、後日ボブ・デイズリーが明らかにした。クレジットに名前を載せない替わりに金を受け取ったとのことであった。

ところがリッチー・ブラックモアはデヴィッド・ストーンの皮肉っぽい性格がお気に召さなかったらしく、アメリカツアー終了後速攻で解雇となった。

【脱退後のキャリア】

1980年にはハンガリー生まれでカナダで活動していたポップシンガー B・Bガボールのアルバムに参加。

 


B.B.Gabor-Soviet Jewellery

1991年にはアメリカのハードロックバンド Vision に、2019年にはドゥームメタルバンドAraPacisのアルバム「Paradox of Denial」に参加。


Paradox of Denial