nijiken

ロックバンドRainbowを研究するブログとしてスタートしましたが、幅広い話題を取り上げたいと考え、ブログタイトルを変更しました。

虹に関わった人達 ベーシスト編

クレイグ・グルーバー(1951年6月15日-2015年5月5日)

【加入前のキャリア】ベースを兼任していたロニー・ジェイムス・ディオがボーカルに専念することとなったエルフに1973年加入。そのまま自動的にリッチー・ブラックモアズ・レインボーの一員となった。

【ミュージシャンとしての実力】当時はあまり振り返られることもなかったクレイグ・グルーバーだが、今になってテクニックが再評価されている。「Snake Charmer」「Black Sheep Of The Family」等で聴かせるハネたリズムが得意。ゲイリー・ドリスコールとのコンビで素晴らしいグルーヴを作り出している。

【脱退理由】最初はエルフのメンバーを気に入っていたリッチー・ブラックモアも、ライブのリハーサルを開始すると同時に徐々に不満が生じて来たらしく、立て続けにクビとなっている。クレイグについては性格的な問題を理由としていた模様。

それでも1977年ジミー・ベイン脱退後にロニー・ジェイムス・ディオの提案で一旦復帰したが1ヶ月で再びクビに。

【脱退後】1984年にゲイリー・ムーア・バンドに加入。日本公演にも参加した。


GARY MOORE - Empty Room - 1984 LIVE

脱退後ゲイリー・ドリスコールとブラック・バイブルというバンドを結成。2015年死去。

 

ジミー・ベイン(1947年12月19日-2016年1月23日)

【加入前のキャリア】リッチー・ブラックモアの旧友リッキー・マンロがドラムのバンド、ハーロットで中心的存在だった。ベースのみならずボーカルもこなし、ソングライターでもあったらしい。リッチーはジミーをロンドンのマーキーで見染め、引き抜きを敢行した。

【ミュージシャンとしての実力】そのプレイは堅実そのもの。エゴを抑え楽曲を支える姿を見て、トニー・カレイは「バンドの縁の下の力持ちはジミー・ベインだ」と語っている。特にリッチー・ブラックモアのロングソロと相性が良いのは断然ジミー・ベインである、と私も思う。

【脱退の理由】ドイツ公演のステージ上にてチューニングの件でリッチーと口論をしたことを発端に、その日の夜リッチーの彼女と関係を持ってしまったことが決定的理由となった模様。

【脱退後】シンリジィのギタリストだったブライアン・ロバートソンとワイルドホーシズを結成し、ベース兼ボーカルとして活躍。

1982年ディオに加入し長く貢献、ロニー死去後、2013年からディオの旧メンバーで結成したラスト・イン・ラインで活動を開始したがライブが行われる船にて死去。

 

ボブ・デイズリー(1950年2月13日-)

【加入前のキャリア】オーストラリア出身。オーストラリアのバンド、カーヴァス・ジュートでキャリアスタート。ロンドンに移住後ウイドウメイカーというHRバンドに所属していた時にレインボーのオーディションの誘いがあり、めでたく合格となった。バンドを捨てることを悩んだが、ウイドウメイカーはメンバー間での争いが絶えなかったことが最終的に決め手となった。

リッチーはプレイは勿論だが性格を最も重視することを知っていたボブ・デイズリーは、最初にリッチーと相性が合うかを確かめてからオーディションに臨んだらしい。ボブはリッチーが求めるベーシストはピック弾きが基本であることをこの時に確認している。

【ミュージシャンとしての実力】ファンからは文句なしに歴代最高ベーシストと認定されている。実際にリッチー・ブラックモアコージー・パウエルは、レインボーで一番上手いベーシストだったと語っている。それはライブではベースソロの披露を許されていたことでもわかる。

ボブ・デイズリー在籍時のライブパフォーマンスは間違いなく、最もリズム隊がしっかりとバンドを支えている時期であり、コージー・パウエルとのコンビで形成されるグルーブ感は強力である。

ちなみにアルバム「Long Live Rock ’N’ Roll」はすでにリッチー・ブラックモアが4曲でベースをレコーディングしていたため、ベースがない「Rainbow Eyes」を除いた残りの3曲のみのプレイとなっている模様。

【脱退の理由】数多あるレインボー脱退劇のなかでも、最も難解なのがボブ・デイズリーの脱退理由である。ボブは「リッチーの作曲パートナーであるロニーが脱退したので、新たなパートナーとしてロジャー・グローヴァーを入れたかったのでは?」と推測するが、時系列で追うとボブ・デイズリーの脱退はロニー脱退より前の段階で起こっている。ロニー在籍時にクライヴ・チェアマンのオーディションを行なっていたという証言があるので、その時点ではロジャー・グローヴァーにベースを弾いてもらうという案はなかったと考えられる。背後でどういった駆け引きがあったのかは本人達にしかわからないが、ロニーがマネージャーからクビを伝えられた時に、言い訳として「レインボーは解散した」と伝えられたと語っているので、ついでに巻き添えを食ったのかもしれない。

【脱退後】オジー・オズボーン、ユーライアヒープ、ゲイリー・ムーアマザーズ・アーミー等の有名バンドで活躍。どのバンドでもソングライティングを含めて重要な働きをしている。後にオジー・オズボーンとは著作権の件で裁判沙汰に発展した。

 

ロジャー・グローヴァー(1945年11月30日-)

【加入前のキャリア】1965年にエピソード・シックスに加入。その後友人のイアン・ギランをボーカルに加入させ活動。この頃から2人でのソングライティングを確立させる。1969年にイアン・ギランがディープ・パープルに誘われた際、ギランの推薦でジャムセッションの結果加入が決定。ちなみにリッチーはロジャーの加入に反対していた。第2期ディープ・パープルにてベーシストとしてのみならず曲作りにも貢献した。後にイアン・ギランが脱退する際に、ギランのついでにクビになった。これにはロジャーのベースプレイを気に入ってなかったリッチーの意向が強く働いた。

その後ディープ・パープルが設立したレコード会社パープル・レコーズにてプロデューサーとしてのキャリアを開始する。この辺りはさすがの大人な対応が光る。その中にロニー・ジェイムス・ディオがボーカルを務めるエルフもあったことがリッチー・ブラックモアとディープ・パープルの歴史を変えた。

1978年、レインボーはアメリカでの成功を目指し、コマーシャルな楽曲を作るためにプロデューサーとしてロジャー・グローヴァーを招聘。これはパープルをクビにしたことに対する贖罪の意味があったとされる。(もしかしたらイアン・ギランを加入させるための駆け引きに使おうと思ったのかもしれない…)

その後、コージー・パウエルとドン・エイリーの要望もあり、ベーシストとしても活動することとなる。

【ミュージシャンとしての実力】リッチーからの評価は高くないが、粒の揃った安定したプレイやポップセンスの高さを感じさせるベースラインは一級品である。ライブでも一糸乱れぬプレイはバンドを支える存在だった。

【脱退理由】レインボー解散と同時に再結成ディープ・パープルに参加した。

【脱退後】その後今に至るまでディープ・パープルの一員である。

ディープ・パープルのリマスターアルバムをリリースする際、リッチー・ブラックモアのギターソロのアウトテイクを勝手に収録したことが契機となり、お互い誹謗し合う関係となる。

基本的にリッチーは音楽的才能で人を評価するところがあるため、ロジャーは何も持っていない、と格下扱いしていた。喧嘩しながらも認め合える関係のイアン・ギランとは異なる部分である。

 

グレッグ・スミス(1963年5月21日−)

【加入前のキャリア】アメリカ、ニューヨークにて活動開始。NYメタルのプラズマティックのボーカル、ウエンディ・O・ウィリアムスのバンドに加入した後、アリス・クーパー・バンドやレインボー解散後にデイヴ・ローゼンタル、チャック・バーギらで結成されたRed Dawnにて活動していた。

レインボーには当初ロブ・デマルティーノというベーシストがいたが、リッチーに嫌われたため、急遽グレッグ・スミスが呼ばれた模様。

【ミュージシャンとしての実力】リッチー・ブラックモアの好み通りピック弾きで粒が揃った堅実なプレイを得意としている。特にレインボーにおいては遊びがないプレイに徹している。

ボーカリストとしてもかなりの実力者でグレン・フライばりのハイトーンで「Burn」を歌いこなす。

再結成レインボーはその位置付けとして「リッチー・ブラックモア・ストーリー」であったことから、第3期ディープ・パープルもこなせるメンバーを探していたのかもしれない。

 

その他の人達

マーク・クラーク

ジミー・ベイン脱退後に一時在籍。クラブでのギグを何度かこなしたらしい。

レインボー加入前はプログレバンド、コロシアムに在籍しており、ベーシストとしての実力は充分だったが、アルバム「Long Live Rock 'N' Roll」レコーディング時のチューニングが狂っていたことからリッチーと口論に発展し、クビになった。

 

クライヴ・チェアマン

ボブ・デイズリー脱退後に、ジェフ・ベック・グループ時代にコンビを組んでいたことのあるコージー・パウエルの推薦で一時在籍。腕前は問題なかったようだが、クライヴはモータウンをバックグラウンドとするベーシストであり、音楽性が違いすぎたため2週間で脱退した。

 

ジャック・グリーン

過去にプリティ・シングスに在籍。リッチー・ブラックモア人間性に惚れ、無理やり加入させようとしたが、コージー・パウエルとドン・エイリーが反対したため、その計画は頓挫した。その罪滅ぼしか1980年のジャック・グリーンのソロ「I Call No Answer」でリッチー・ブラックモアはギターを弾いている。


I Call No Answer

 

 

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リッチー・ブラックモアが弾いた4曲のベースとは何の曲?

アルバム「Long Live Rock `N' Roll」の作成中は中々ベーシストが定着しなかった時期ということもあり、リッチー・ブラックモアがベースを弾いた4曲が消されずに使用されていると言われています。(4曲あると2006年のB!誌のインタビューで問われ、否定していない)しかしどの曲がリッチーなのかについては明確になっていないみたいなので、ここで検証してみたいと思います。

ヒントとして以下のことを考慮します。

①ボブ・デイズリーの前任のマーク・クラークが「Kill The King」を含む3曲レコーディングした、と語っている。

②ボブ・デイズリーはリッチー・ブラックモアのベースについて「俺に言わせれば物足りない。基本的にはギターと同じことしかやっていないんだ」と語っている。

リッチー・ブラックモアは「当初のベーシストに嫌気がさして自分で弾いた」と語っていることから、マーク・クラークが一旦レコーディングした3曲を弾き直したと考えられる。

 

1.Long Live Rock `N' Roll

リッチー・ブラックモア

ベースはギターをなぞっており、遊びはほとんどありません。音色にも艶がない気がします。

この曲のレコーディングはかなり初期に行われていることがわかっており、マーク・クラークがレコーディングした一曲と考えられます。

ちなみにボブ・デイズリーがライブでプレイした音源を聴くと違いが明確です。

2.Lady Of The Lake

リッチー・ブラックモア

同じくギター的ベースで遊びがありません。

典型的ギタリストによるプレイです。
3.L.A Connection

★ボブ・デイズリー

やっぱり音色に艶があります。

いかにも上手いベーシストのプレイで独特のグルーヴ感があります。
4.Gates Of Babylon

★ボブ・デイズリー

この曲は考える余地はありません。ギタリストのベースと全然違う一流のクオリティです。
5.Kill The King

リッチー・ブラックモア

ライブにおけるボブ・デイズリーによるプレイはスタジオ盤に近いので、正直一番悩みましたが、マーク・クラークが間違いなくレコーディングしたと証言していることが決め手に。
6.The Shed(Subtle)

★ボブ・デイズリー

これも音色の艶とグルーヴ感で決定。
7.Sensitive To Light

リッチー・ブラックモア

ギター的ベースの典型例
8.Rainbow Eyes

ベースなし

 

現在、虹に関わった人達 ベーシスト編を作成中です!

虹に関わった人達 ボーカリスト編

ロニー・ジェイムス・ディオ (1942年7月10日−2010年5月16日)

【加入前のキャリア】元々トランペット奏者だったロニーはリッチーよりも年上でもあり、かなり古くからベース&ボーカルで活動していた。1962年にロニー・ディオ&ザ・プロフェッツでデビューしたのち、エルフを結成。1974年にディープパープルのサポートを務めた際にリッチーと出会う。

【ミュージシャンとしての実力】圧倒的声量と音程を外すことがない音感で、誰もが認めるHRを代表する名ボーカリストである。リッチーのリフにメロディを付けるセンスも卓越しており、ロニーがいたからこそ、リッチーはディープパープルを脱退する気になったと言える。後にレインボーが様式美HRの始祖と言われるようになった原動力でもあった。

【脱退理由】ロニーをバンドの前面に推したい妻のウエンディとリッチー・ブラックモアコージー・パウエルの対立があった模様。リッチーによると結成時には低姿勢だったが徐々に傲慢な態度になっていったという。

ロニー側から言わせれば、アメリカ進出のためのバンドのポップ化を承諾しなかったという明確な理由もあり。脱退後のインタビューにおけるリッチーに対する罵詈雑言は激しいものがあった。

【脱退後】ブラックサバス、DIOにおいて活躍した。晩年、リッチー、コージーとレインボーの再結成話が実現寸前まで進んだが破談に終わった。

【異名】メタル界のサブちゃん、メタル界のゴッドファーザー

 

グラハム・ボネット(1947年12月23日−)

【加入前のキャリア】1968年に従兄弟とのデュオグループ、ザ・マーブルスでデビュー。リッチーらが記憶していたことから加入につながったと言われている「Only One Woman」がヒットした。ベーシストとして活動したこともある。その後はソロ歌手としてアルバムを3枚発表していた。オーディションで「Mistreated」を3音歌っただけで合格した。

【ミュージシャンとしての実力】4オクターブとも言われる声域を誇り、人間離れした声量でロニー時代の曲も難なく歌いこなす実力があった。ポップもHRも軽々とこなすユーティリティ性は、ポップ化を目指す過渡期のレインボーにとっては適任だったと言える。

ただ当時はHRに興味が持てず、リフに歌メロを付ける作業を苦手としていたらしい。歌詞を覚えるのも苦手で、ステージで歌詞カードを準備することが多い。(のちにMSGでこの事が災いをもたらす)

アルカトラス初来日時のパフォーマンスが不安定だったため、一時評価が不当に低い時期があったが、今では再評価されている。レインボー時代は圧倒的な歌唱をほとんどの公演で聴かせている。

【脱退理由】その歌唱についてはメンバーも皆認めていたが、元々HRが好きではなかった上に、ステージ前にリッチーに逆らって髪を切ってしまったこと、スタジオでのやる気のなさにロジャー・グローヴァーが激怒したこと等、色々なことが重なったため、バンドは新ボーカリストを探すこととなった。

そして運良くジョー・リン・ターナーが見つかったため、グラハムはクビとなった。

グラハム側から言わせれば、親友のコージーが居なくなったし、ニューアルバムは「I Surrender」以外良い曲がなかったので自分から辞めた、らしい。

【脱退後】コージー・パウエルの後を追い、マイケル・シェンカー・グループに加入した瞬間にコージーは脱退。その後、名盤「Assault Attack」を発表したが、ステージ上でのトラブルで脱退。アルカトラスを結成し、イングヴェイ・マルムスティーンスティーブ・ヴァイを輩出した。解散後クリス・インペリテリインペリテリにも参加している。

その後多様なバンドで活躍し、日本のバンド、アンセムともツアーを行なっている。

現在はグラハム・ボネット・バンドで活動中。2019年も来日公演を行った。

【異名】やっさん

 

ジョー・リン・ターナー(1951年8月2日−)

【加入前のキャリア】元々はギタリストとしてキャリアを始め、1976年からファンダンゴに参加し、ギターとボーカルを担当していた。ファンダンゴ解散後いろんなバンドのオーディションを受けていたが、当初はジャズギターやイーグルスが好きでレインボーにはあまり興味がなかったらしい。リッチーから直接電話を受け、オーディションに誘われた後、グラハムがバックコーラスを入れた「I Surrender」を 見事に仕上げたことで加入が決定した。

【ミュージシャンとしての実力】当時、熱烈なアバのファンだったリッチーが求めていたボーカリスト像は、ポップな楽曲を歌えて作れる人だったと想像される。ジョー・リン・ターナーは80年代を席巻したポップロックに最適な声とルックスを持っており、更に優れたメロディセンスも兼ね備えていたことから、長くリッチーのお気に入りとして君臨した。

しかし、それまでの歴代ボーカリストの圧倒的なパワーに比べると若干見劣りするのは事実である。特にライブでのパフォーマンスは線が細く、ロニー期の曲はキーを下げたり、ハイトーン部で掠れたりで、熱心な既存のファンの信任を得られなかったことは否めない。

それでもスタジオでの仕事は優れたモノを沢山残しており、名盤「Bent Out Of Shape」はジョーの貢献度が最も高い。

【脱退理由】1984年3月の日本公演後ディープパープルが再結成されたため、正確には脱退ではなく解散ということになる。当時リッチーは「最近ジョーは傲慢になって来てた」的発言をしていた為、レインボーが継続していたとしても長くはなかったかもしれない。

【脱退後】ソロ活動、イングヴェイ・マルムスティーンライジングフォース参加後にディープパープルで再会することとなる。「ジョーは良いボーカリストではあるが限界がある。」とリッチーは語っていたが、スタジオでは良い仕事をするが、これはステージでは物足りないということを意味するのかもしれない。

その後、マザーズアーミー(ジェフ・ワトソン、ボブ・デイズリー、カーマイン・アピス)、ヒューズ・ターナー・プロジェクト(グレン・ヒューズとのユニット)、OVER THE RAINBOW(レインボーのトリビュートバンド)等多数のプロジェクトで活躍。

【異名】ゴールデンボーイ

ドゥギー・ホワイト(1960年3月7日-)

【加入前のキャリア】スコットランドでの活動を経て、1991年にプレイング・マンティスのボーカルとして来日。アイアンメイデンのオーディションでブレイズ・ベイリーに敗北した時期に、キャンディス・ナイトがデモ音源を聴いて気に入ったことから、リッチー・ブラックモアズレインボーのオーディションに合格することとなった。

【ミュージシャンとしての実力】一言で言えば器用なタイプのボーカリスト。強い個性はないが、ロニー期からジョー期までの多様な曲を歌いこなせるユーティリティ性がある。リッチーからは、メロディ作曲能力とライブでのアドリブ力を高く評価されていた。メロディのアイデア出しにおいては量産型であり、一曲に対し複数のメロディを提示してくることが常だったらしい。ライブパフォーマンスにおいては、ご当地の替え歌をアドリブで歌う能力を賞賛されていた。

【脱退理由】リッチー・ブラックモアが語るには、他のメンバーと揃ってのギャラアップの要求をはねつけたことが原因とされている。ただ、この時期はブラックモアズ・ナイトの始動時と重なり、当時マネージャーとなったばかりのキャンディス・ナイトの母キャロルが意図的に潰したのではないか?とも考えられる。

【脱退後】レインボーOBは他のHRバンドで活躍するという法則通り、イングヴェイ・マルムスティーンライジングフォースに加入したり、マイケル・シェンカーズ・テンプル・オブ・ロックで活動したりと活躍中。

 

【その他の人達】

イアン・ギラン

ロニー脱退時にリッチー自ら加入を依頼した。ところが当時はギランの方がアメリカで売れていたため、逆にギランに入らないかとキツイことを言われ実現しなかった。リッチーの立場としてはアメリカで成功するための苦肉の策だったと思われる。プロデューサーにロジャーを起用したことも関係があるのかもしれない。

 

ピート・ゴールビー

グレン・フライが抜けた後のトラピーズに在籍していたこともある。ロニー脱退後に一時加入していたらしい。リッチー曰く、声は気に入っていたがキーが低くAまでしか出せなかった為クビにしたとのことである。

その後ユーライアヒープに加入しアルバムを発表。ルー・グラムを彷彿とさせるポップよりのボーカリストであり後のジョー・リン・ターナーと共通する資質があるように思えるが、少し時期尚早だったか?

マイケル・シェンカー・フェストのニューアルバムにロニー・ロメロ参加

amass.jp

マイケル・シェンカー・フェストが2枚目のニューアルバム「Revelation」を9/20に発売します。

メンバーは超豪華です。

ゲイリー・バーデン、グラハム・ボネット、ロビン・マッコーリー、ドゥギー・ホワイトという歴代ボーカルに加えなぜかロニー・ロメロまで参戦とのこと。

ドラムにサイモン・フィリップス、日本盤のみですが高崎晃がゲスト参加しているようです。

 

みんな元気で嬉しい限りですね。

ホワイトスネイク「Slip Of The Tongue」30周年記念盤発売

10月の来日公演が延期となったホワイトスネイクですが、「Slip Of The Tongue」30周年記念盤を発売するそうです。

最新リマスター音源を6CD+DVDの7枚組スーパー・デラックス・エディションや2CD、1CD、2LPを含む合計4形態態にてリリースとのことです。

ホワイトスネイク、『スリップ・オブ・ザ・タング』リリース30周年記念エディションが発売決定! (2019/08/15) 洋楽ニュース|音楽情報サイトrockinon.com(ロッキング・オン ドットコム)

 

1980年5月9日 東京公演2日目

Setlist

Eyes Of The World

Love's No Friend

Since You Been Gone

Man On The Silver Mountain

Catch The Rainbow

Lost In Hollywood

 

encore

All Night Long

Long Live Rock'n'Roll

 

encore2

Kill The King

Long Live Rock'n'Roll

 

東京2日目となった武道館公演も、本当に良質なオーディエンス音源が存在します。

この日は「Will You Still Love Me Tommorow」がないのは残念ですが、流石は”最強の布陣“だけあって一分の隙もない素晴らしい演奏となっています。

特に「Since You Been Gone」の前後に演奏される、「ブランデンブルク協奏曲」と「Over The Rainbow」、さらに「Catch The Rainbow」のギターソロは丁寧かつ超メロディアスなインプロヴァイズが強力な出色の出来映えとなっており、一聴の価値があると思います。

 

個人的な思い出ですが、この音源が初めて聴いたレインボーのブートでした。ドラマチックなステージに激しく感動したのを覚えています。

 

 

 

 

 

1984年3月14日武道館(ラストコンサート)

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Setlist

Spotlight Kid

Miss Mistreated

I Surrender

Can't Happen Here

Catch The Rainbow

Street Of Dreams

Fool For The Night

Difficult To Cure

Power

Stranded〜Hey Joe

Death Alley Driver

 

Encore
Fire Dance

Maybe Next Time

All Night Long

Since You Been Gone

Smoke On The Water

 

言わずと知れたラストコンサートです。大阪、東京のみの短い滞在だったので、当時福岡県に住んでいた私は涙を飲んで諦めたものです。後日ヤングギター誌(この頃はネットがなかったので月刊誌で情報を仕入れるしかなかった)でオーケストラとの共演を果たしたことを知った時の悔しさは忘れられません。

 

はっきり言って、この日のリッチーのプレイはあまり出来が良くありません。歪みがキツイ上、何故か全編にわたってオクターバーがかかりっぱなしで音が潰れており、何を弾いているのかがわからない部分があるほどです。大阪公演ではポイントでしかオクターバーは使われていなかったので、何らかのトラブルがあった可能性はあります。(3/13の公演は未聴なので、そこにヒントがあるかもしれません。近いうちに確かめたいと思います。)音が悪ければプレイにも身が入らないのは必然で、この日のリッチーは手抜きにしか見えないプレイが頻発しているように私には見えます。

 

ただしこの日のリッチーの機嫌はすこぶる良く、ステージアクションの面では全力でノリノリな姿を観れるので、映像としては価値があるものです。中でも「Difficult To Cure」におけるオーケストラ共演は素晴らしい記録ですし、オールヒットといえるsetlistはこの時期だけのもので、一曲ごとが短いので軽い気持ちで観る事ができます。

 

ジョー・リン・ターナーの調子は1982年以降にしてはかなり良い方で、多様な曲の魅力を伝えることができています。

ロジャー・グローヴァーは相変わらずタイトなプレイです。この時期バンドを引っ張っていたのは間違いなくロジャーのベースでしょう。特にテンポの速い曲でも乱れない安定したプレイは素晴らしい!

チャック・バーギのプレイは賛否が分かれる部分ではありますが、タイトかつ機転の効いたプレイはこの時期のレインボーにピッタリハマっているように思います。

デイヴ・ローゼンタルのキーボードですが、個人的には魅力を感じません。ソロのフレーズにセンスを感じないのと、音色があまり好きでなく、バッキングプレイもリッチーのギターのフォローに終始している印象を受けます。ドン・エイリーやトニー・カレイのような花がありませんね。リッチーからの評価は高いデイヴではありますが…

 

この日の映像は元々東映ビデオから日本限定で発売されていましたが、権利関係が複雑だったらしく長らく廃盤となっていました。現在ではめでたく再発されていますので、いつでも観る事が可能です。

なぜリッチー・ブラックモアはメンバーチェンジを好むのか?

リッチー・ブラックモアは"首切りリッチー"との異名を持つほど、メンバーチェンジを頻繁にすることで有名です。その理由としては様々なものがあります。

 

まず、リッチーの基本的な好みですが

・ベースピック弾きが上手い。かなりのスピードでも乱れない。遊びが少ない。自分より目立たない。

・ドラム:タイム感が優れている。ドラムソロは派手好み。インプロヴァイズに強い。

・キーボード:ギターを支えるプレイができる。クラシカルなプレイができる。

・ボーカル:謙虚。曲が作れる(作詞とメロディライン) 。音を外さない。髪が長い。

といったところがあげられます。

 

次に辞めた理由を大別すると

・テクニカルな面でクビ:ゲイリー・ドリスコール、ミッキー・リー・ソウル

・自分から脱退:ドン・エイリー、コージー・パウエルグラハム・ボネット

・人間的相性でクビ:トニー・カレイ、ロニー・ディオ、クレイグ・グルーヴァー

・なんとなく流れで:マーク・クラーク、ボブ・デイズリー

・他のメンバーの干渉:ボブ・ロンディネリ

・引き抜きされる:チャック・バーギ

・金の問題でクビ?:ドゥギー・ホワイト、グレッグ・スミス、ポール・モリス、ジョン・ミッチェリ

・家庭の問題:ジョン・オライリー

中には理由が複合している人もいる気がしますが、こんなものでしょうか?

 

これらのことを、DP時代も含めて考えると2つの事が見えてきます。

 

1.重要メンバーとその他に分けて考えているっぽい

ロニー時代に3頭政治といわれていたように、リッチーにとって重要なメンバーと、その他のメンバーがいたような気がします。

ロニー・ジェイムズ・ディオコージー・パウエル、ロジャー・グローヴァー、ジョー・リン・ターナー、デイヴ・ローゼンタル、ドン・エイリーは前者で、その他のメンバーは後者にあたります。

 

2.ある程度リスペクトしているメンバーとそうでないメンバーがいる

コージー・パウエルやイアン・ギランに対して、頻繁にケンカはしますがその代わり相手に対するリスペクトもあるようです。二人はリッチーと同格のキャリアが最初からあったし、性格上初対面から強気の態度で臨んでいたと思われます。

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リッチーは最初からはペコペコしていた人間が徐々に尊大になることを絶対に許さないという傾向があります。ロニーやデイヴィッド・カヴァーデルにはこういうボーカル病的傾向があったため破局を迎えたようです。

 

犬猿の仲のイアン・ギランと異なり、コージー・パウエルがリッチーと5年間という長期に渡り何だかんだと上手くやって行けたのは、ドラム以外の音楽的な事にあまり口を出さなったからでしょうけど…