nijiken

ロックバンドRainbowを研究するブログとしてスタートしましたが、幅広い話題を取り上げたいと考え、ブログタイトルを変更しました。

虹に関わった人達 ドラマー編5

ジョン・ミッチェル(1961年5月29日ー)

【加入前のキャリア】アメリカ、ロングアイランドのドラマー。1991年からミートローフに参加、その後ブルー・オイスター・カルトとのツアーと交差しながら長くミートローフでドラムを叩き続けている。ちなみにレインボー加入前の時期はこの2つのバンドをチャック・バーギと入れ替わりで出入りしている事から、ドラマー互助会的な関わりがあったのではと推測される。レインボーにもチャック・バーギの推薦で加入した。

【ミュージシャンとしての実力】歴代ドラマーの中でもかなりロックよりのプレイでビートも直線的である。もともとディープ・パープルもレインボーも聴いたことがなく、アメリカツアー9日前に加入となった事から、バンドにフィットさせるのにかなり苦労したらしい。よってアメリカツアーの前半は苦戦していたが、ハードロックバンドであるレインボーとしてのクオリティは確保できている。

【脱退理由】レインボーの活動停止により自然消滅。

【脱退後の活動】途中ブルー・オイスター・カルトも挟みながらミートローフのメンバーを長く継続し、クイーンのミュージカル「We Will Rock You」に参加。


We Will Rock You the Musical [FULL ORIGINAL] (improved audio)

2018年にはブライアン・メイのシングルでドラムを叩いている。


Brian May - New Horizons (Ultima Thule Mix) [Official Music Video]

虹に関わった人達 ドラマー編その4

ジョン・オライリー(生年不明8月ー)

【加入前のキャリア】70年代後半からジャズドラマーとして活動。その後バンドでロ​​ック界に転身した。1980年にはジョン・レノン・アンド・オノ・ヨーコのアルバム「Double Fantasy」のためのセッションでオノ・ヨーコとデモを録音した。後に彼はリッチー・ヘヴンス、ハーマンズ・ハーミッツらと、1990年にはCPR(ランディ・コーベン・アル・ピトレリ・ジョン・オライリー)でアルバムを発表している。

1993年にジョー・リン・ターナーとレコーディングした際にレインボーが再結成されること、ベースとドラマーを探していることを知り、自らオーディションに応募した。オーディションの手順はいつも通りだったようで、最初の10分間はリッチーが鳴らす指のテンポに合わせてプレイし、それからシャッフルをプレイするように要求された模様。ジョン・オライリーはシカゴ・ツーハンド・シャッフル、テキサス・スイング、ロック・シャッフルをこなせたそうで、懐の深さにリッチーは驚いていたらしい。

ジョン・オライリーがアルバム「Stranger in Us All」のレコーディング中の思い出として語っているのは、「アルバムのコーナーストーン」というものである。リッチー・ブラックモアはアルバムを支える4つの重要な曲が必要と考えており、その1つが「Black Masquerade」だったという。

【ミュージシャンとしての実力】リッチー・ブラックモアは彼のリズムキープ力を非常に高く評価している。アルバム「Stranger in Us All」でのプレイは、サウンド、ビート、フィルイン全て素晴らしく、特にミディアムテンポの楽曲で心地よくスイングしている。

【脱退理由】サッカー中での怪我で再結成レインボーのツアーに参加出来なかったため、1995年9月にブルー・オイスター・カルトに加入したが、1996年に脱退し、1997年にはブラックモアズ・ナイトでリッチーと改めてツアーを行い、日本公演も実現した。

【脱退後】その他にもジョー・ウォルシュブルース・スプリングスティーンザック・ワイルド、スティーブ・モーズ、スタンリー・ジョーダンとのレコーディングやライブを行っている。

現在、アル・ピトレリ、ポール・オニール、ジョン・オリヴィア、ロバート・キンケルの4人が核となるプログレ・メタルバンド、トランス・シベリアン・オーケストラに参加している。


Trans-Siberian Orchestra - Christmas Canon Rock

2018年には演劇仕立てのロックショウであるウィザーズ・オブ・ウィンターにも参加している。

 


Wizards of Winter 12/21/18

 

虹に関わった人達 ドラマー編その3

チャック・バーギ(1952年8月15日ー)

アメリカ ニュージャージー生まれ

【加入前のキャリア】いくつかのアルバムセッションに参加した後1978年にジャズフュージョンバンドBrand Xに参加。当時の音源を聴くと、テクニカルの面ですでに完成していることがわかる。その後結成されたハードロックバンド、バランスに加入。1981年に「Breaking Away」でアメリカのシングルチャートでトップ25のヒットを記録した直後のアルバムから参加している。


In For The Count - BALANCE

その後、アル・ディ・メオラ、ホール・アンド・オーツらとセッションおよびツアーを行っている。ビッグアーティストのツアーで採用されている事は実力のある証拠。

 

ボブ・ロンディネリ脱退後、ロンディネリのプレイをそっくりにコピーしたドラマーが一時加入していたが、あまりの下手さにジョー・リン・ターナーがキレ、チャック・バーギを推薦したと言われている。その時のドラマーの名前は明らかにされていないが、リッチー・ブラックモアはそのドラマーをかなり気に入っていたとのことである。

 

のちの再結成レインボーにおいて、正ドラマーのジョン・オライリーがサッカー中の怪我で帯同できなかったため、チャック・バーギが再び呼び戻された。

【脱退理由】

一度目はディープ・パープル再結成の余波を受けてのレインボー解散によって止むを得ず。

再結成レインボーにおいて1997年のアメリカツアーの直前に突然脱退を表明。彼が最初の契約時に聞いていたほど、ツアーが忙しくならなかったことが原因。チャックのドタキャンにマネージャーのキャロルがパニックになったとされているが、申し訳なく思ったチャックは後釜にジョン・ミッチェリを推薦したといわれている。

【ミュージシャンとしての実力】

レインボーにおけるプレイスタイルは非常にタイトで、ロック、フュージョン、ジャズ、ポップス全てに対応できる懐の深さもある。唯一無比のブリティッシュ・ハードロックとポップのハイブリッド最終形ともいえるアルバム「Bent Out Of Shape」は彼のドラミングあってのものだと言える。(「Street Of Dreams」のドラムがチャックじゃなかったらあれだけの名曲になっただろうか?)反面、パワーと面白みに欠けるとの評価もされがちだったが、再結成時のプレイはかなりパワフルでハードロックよりなサウンドと変化していた。

【レインボー脱退後】

レインボー解散後、1985年ジョー・リン・ターナーのソロプロジェクトに参加した後、1987年にミートローフへ、1991年からはブルー・オイスター・カルトに加入。(再結成レインボーのツアーに参加した際は一時的に脱退)加入と脱退を繰り返しながら1997 年まで活動を継続している。(ちなみにこの時期のブルー・オイスター・カルトのドラマーはチャック・バーギ、ジョン・オライリー、ジョン・ミッチェリが交代しながら務めており、1997年からはボブ・ロンディネリが加入するというモロにレインボー人事となっている。もしかして、これらのドラマー人脈は互助会みたいになっていたのでは?と推測される)

その他、エンリケ・イグレシアスやマイケル・ボルトンボンジョビダイアナ・ロスら多彩な人達とレコーディングおよびツアーを行っている。

2002年から2006年まではビリー・ジョエル のブロードウェイ・ミュージカルMovin 'Outのステージバンドのメンバーに抜擢。

2005年11月からはビリー・ジョエルの正ドラマーとして2006年、2008年には日本公演にも帯同している。2017年にはベーシストのグレッグ・スミスらとともにトーキョー・モーター・フィストに参加している。


Tokyo Motor Fist - "Love Me Insane" (Official Audio)

 

やっているうちに

虹に関わった人達ですが、昔ホームページ時代のコンテンツとは全く異なった内容となっております。

それぞれのミュージシャンのキャリアを追いかけだすとキリがなく、徐々に長文となってきました。こうなると過去にアップした記事も物足りなくなってくるもので、大幅なリライトが必要となりそうです。

今後は基本一人ずつの更新スタイルとなるかと思います。何卒よろしくお願いします。

虹に関わった人達 ドラマー編その2

ボブ・ロンディネリ(1955年7月27日ー)

【加入前のキャリア】カーマイン・アピスに師事しアメリカ ロングアイランドのローカルバンドにて活動していたころ、オーディションにて一時はKISS加入が決定していたとも言われている。(実現していたら例のメイクをしていたはずで、かなり迫力があったであろう)同時期にバリー・アンブロージオというリッチーの友人が見つけ出し、リッチーも気に入ったため加入に至った。

【ミュージシャンとしての実力】彼の真価はツーバスにある。そのバリエーションの多さとラウドさは歴代ドラマーでもNo.1と個人的に評価している。フィルインのセンスも良く、楽曲の良いアクセントとなっているケースも多い。

サウンドは若干重めである。

ドラムソロはショーマンシップに富んだド派手な構成となっている。

1.手で叩く 2.スティック飛ばし 3.大型ドラ 4.写真撮影 等

若干リズムがもたるところがあったり、強弱の付け方が甘かったりする所が弱点といえる。

【脱退理由】ちなみに、当時のリッチーはボブ・ロンディネリを指差しての首切りポーズを多様していたため、いつクビになるのかがずっとネタにされていた。リッチーとの関係性は非常に良好で脱退理由は明確になっていない。ジョー・リン・ターナーがリッチーをけしかけて辞めさせたという噂があるが、ジョーは否定している。

【脱退後】レインボー脱退後は引く手数多で、スコーピオンズ、ブラックサバス、ブルーオイスターカルト、アクセル・ルディ・ペル、クワイエットライオット、ライオットやオーバー・ザ・レインボー、ソロ活動等をこなしている。

 


Bobby Rondinelli with Ritchie Blackmore intro drum solo San Antonio Texas 1982 with Rainbow

 

 

 

 

 

 

 

虹に関わった人達 ドラマー編(その1)

ゲイリー・ドリスコール(1946年4月18日ー1987年6月8日)

【加入前のキャリア】1965年にロニー・ディオ&ザ・プロフェッツからキャリアをスタートしており、ロニーとは古くからの音楽仲間だった。その後エルフに移行しそのままレインボーに加入することとなる。

【ミュージシャンとしての実力】アメリカ的ロックンロール・ドラマーでタムの重いチューニングはジョン・ボーナムを彷彿とさせる。(実際に仲が良かったらしい)

跳ねたリズムに真骨頂があり、アルバム「Ritchie Blackmore’s Rainbow」ではクレイグ・グルーバーとのコンビで随所に躍動感溢れるグルーヴを感じるプレイを聴かせてくれる。

【脱退理由】リッチー・ブラックモアはプレイも人間性も高く評価していたらしい。クビにすることに迷いがあったようで、ロニー・ディオも反対したようだが、ライブのリハーサルがうまく行かなかったことで仕方なく解雇。

【脱退後】いくつかのバンドでプレイした後、クレイグ・グルーバーらとバイブル・ブラックを結成したが、成功を手にすることはできなかった、その後はセッションに参加し日銭を稼ぐ毎日を過ごしていたが1987年に薬物取引に巻き込まれ他殺された。

コージー・パウエル(1947年12月29日ー1998年4月5日)

【加入前のキャリア】12歳からドラムを始め、その後ポップバンド、ザ・ソーセラーズに加入しドイツのライブハウスをまわった。イギリスに戻ってからはビッグ・バーサやベドラム、数多くのセッションをこなし、1971年に第2期ジェフ・ベック・グループに参加。1973年にはベドラムを再結成、1974年には「Dance with The Devil」がチャート3位のヒットとなった。


COZY POWELL - DANCE WITH THE DEVIL

コージーのレインボーにおけるオーディションの逸話は複数の人が語っている。シャッフルを20分くらい叩いて即採用決定!となったらしいが、元々輝かしいキャリアを誇るコージーだけに、別格扱いである程度採用は決まっていたのかもしれない。

【ミュージシャンとしての実力】ツーバスを駆使したパワフルかつ派手なプレイが信条。歌心のあるプレイを得意としており、静と動のコントラストの付け方が抜群である。歯切れの良いサウンドによるフィルインの数々は、すぐにコージー印とわかるほどキャラが確立している。

チャイコフスキー「序曲1812」をバックに叩くド派手なドラムソロはコージーの代名詞である。

【脱退理由】レインボーを自ら辞めた数少ない男の一人である。そこには決定的な原因があったわけではなく、少しずつ溜まったフラストレーションが爆発したものと考えられる。その後のキャリアを考えたら長続きしたとも言える。過度なイタズラ好き繋がりでリッチー・ブラックモアとの相性も良かったのであろう。

後任を見つける猶予を与えるため1年前に脱退を宣言していたというところにも漢気があふれている。実際に1980年のドニントンには後任のボブ・ロンディネリが挨拶に来ていたらしい。

【脱退後】1981年にマイケル・シェンカー・グループに加入。アルバム「M.S.G」をリリース。レインボーと同時期に日本公演も実現している。ゲイリー・バーデンの後釜にグラハム・ボネットを推薦しておきながら、自身は翌年に脱退し、1983年からはデヴィッド・カヴァーデルのラブコールに応え、ホワイトスネイクに加入し、1984年には日本公演を行なっている。(MSGやボンジョビと共演)
その後、エマーソン・レイク・アンド・パウエル (ELP)やブラック・サバスへ参加し、"渡り鳥"と揶揄される。
その後、ブライアン・メイ・バンドにて「Since You Been Gone」をプレイしたりピーター・グリーンイングヴェイ・マルムスティーンとレコーディングを行なっている。

そんな中の1998年4月5日、イギリスにて高速道路の中央分離帯に衝突事故を起こし、逝去した。

無念としか言いようがない…

ビートルズの新事実発掘

ビートルズは「Abby Road」に続くアルバムを製作する予定だった!という新事実が録音されたテープが発掘されました。

これはかなり重要な話と考えられます。ポールvsジョン、ジョージ、リンゴの対立があったことは周知の事実ですが、なぜバンドの存続を人一倍望んでいたポールが最初に脱退を表明したのか、という謎を解くヒントになりそうです。

 

headlines.yahoo.co.jp

マイケル・シェンカー・フェスト2020年3月に来日決定!

マイケル・シェンカー・フェストが2020年3月に来日決定しました。

今回のメンバーは下記の通り。

ギター : マイケル・シェンカー

ボーカル : ゲイリー・バーデン、グラハム・ボネット、ロビン・マッコーリー、ドゥギー・ホワイト

ギター/キーボード : スティーヴ・マン

ベース : クリス・グレン

ドラム : ボド・ショプフ、サイモン・フィリップス

 

今回はテッド・マッケンナの追悼ライブとなるため、サイモン・フィリップスの特別参加も決定したそうです。

東京と大阪だけなのが残念ですが、DAY1とDAY2では約半数のセットリストを入れ替えるとのことなのでできれば両日参加したいものですね。

ameblo.jp

今更ですが、「レインボー研究所」復活のご挨拶

レインボー研究所という個人サイトを開設したのは2001年のことでした。

当時は個人ホームページ全盛時代で、音楽系のサイトも多数存在していました。著作権等、今よりかなり緩い時代でした。当時、同じ趣味をもつ数多くの方と交流できたのは幸運だったと思います。海外アーチストの宣伝に協力させてもらったりと楽しかった事しか思い出しません。
 
当時、ネットは電話回線でつないでいた記憶があります。途中で電話がかかってきたら切断されるのでダウンロードのやり直しになったりしました。電話代節約のため「テレホーダイ」に加入して深夜に活動していた人が多かった時代です。
 
2005年くらいからブログに転身する人が増えて行き、個人ホームページ自体が廃れていった原因は色々あるでしょうけど、ブログやSNSで発信する方が手軽でタイムリーですからね。
「レインボー研究所」も2006年くらいになるとほとんど放置状態となってしまい、更新のモチベーションが上がってこないこともあり、WEBサイトとしては閉鎖させていただき、10年以上が経過しました。
 
しかし、充電期間にレインボーへの愛情が復活してきたこともあり、この度ブログで復活することとなりました。以前の文章は今読むと稚拙な部分が多かったこともあり、ほとんどリライトしています。
充実した内容となるよう努力しますので、今後とも何卒よろしくお願い致します。

1977年10月20日 ミュンヘン公演(Live in Munich 1977)

レインボー~ライヴ・イン・ミュンヘン 1977【初回限定盤】 [ レインボー ]

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感想(2件)

リッチー・ブラックモアロニー・ジェイムス・ディオコージー・パウエルの3人が揃ったステージをフル収録した唯一の映像です。

当時はNHKでもハイライト版が放送されたことがある放送用の映像となります。

時代が時代だけに流石に画質は荒いですが、過去に流通していたVHSビデオに比べれば天国なDVDが2005年に発売されています。

 

この日のステージはプロモーターを殴って逮捕されたリッチーが、刑務所から解放された直後に収録されており、文字通りカタルシスを感じているのが分かる名演となっています。

コリン・ハートによると、衣装も刑務所の3日間ずっと着た切りでそのまま着替えもせずステージに立ったそうです。

 

ともかく全盛期の3人が動いているだけでも感動モノです。この日のリッチーは疲れもあってか激しいアクション全開ではありませんが、ギター壊しはいつものパターンと異なり、「Do You Close Your Eyes」の演奏が終了し他のメンバーが引き上げた後、リッチー1人で行なっています。逮捕の怒りをぶつけるかのようにダイナミックで見応え充分です。

ところでなぜいつもと違うエンディングになったのかを解き明かすと、リッチーがギター壊しに入ると見せかけて、再度歌に戻るというイタズラを仕掛けたためです。

打ち合わせと異なり、ギターを壊さず、歌に戻されてしまったため、裏で休んでいたロニーが慌てて出てきてタバコ片手に歌い出さないといけない羽目となっています。

この時のロニーは一旦コーラス用のマイクで歌おうとしますが、声の拾いが悪かったため、途中でメインマイクに移動するのですが、これを見たリッチーが嬉しそうに笑っている様が観ることができます。

 

1977年のセットリストは1976年とほとんど変わらず「Stargazer 」が「Long Live Rock 'N' Roll」になっただけではありますが、細かいアレンジ等で変わった部分がいくつかあります。

①曲間に爪弾くクラシック曲に「ブランデルグ協奏曲」

②「Still I’m Sad」のギターソロパートでベートーベン第9番を導入

③「Kill The King」のイントロでベース音の上昇

④「Kill The King」のギターソロ時のブレイクパターンを変更(後のギター壊し用バージョンと同一)

いずれも以降のステージに継承されている変更点です。